山原のムラ・シマ
   
      ―旧羽地間切(現名護市)―   トップへ


【我部・屋我など】2003.2.15(土)

  「仕明地調綴」(明治21年)の字(小字、原)と現在のを比較してみた。村によっては七割ほど合致するが、屋我地島の我部・屋我・済井出・饒平名の四つの村では2割程度しか合致しない。資料の性格にもるものであろうが、明治j21年から明治36年にかけて小字(原)の大幅な組み換え(統廃合)がなされているようだ。

 今帰仁間切の平敷村でその結果をみることができるが、羽地間切地域ではどうなのか確認してみる必要があった。結論として「大幅な小字(原)の編成替えがあった」ということ。(明治21年と同36年の小字(原)の比較表は4頁ほどあるので省略)。小字地名は村(現在の字名)について、検討されなければならない。場所を特定したところで論をたてなければ砂上の楼閣となってしまう可能性が大である。そういった意味もあり地名の範囲特定や変遷は重要である。地名の指し示す場所や土地の特定は、机上の論や語義論に終始しないためにも有効である。
   

 ▲『仕明調帳』(明治21年)

【羽地間切真喜屋・済井出など】2003.2.14(金)

 羽地間切の「仕明地調綴」(明治21年)がある。綴りがあるのは羽地間切の真喜屋村・済井出村・源河村・稲嶺村・仲尾次村・田井等村・親川村・伊差川村・我部祖河村・古河知(古賀治)村・呉我村・我部村・饒平名村・屋我村である。仕明地の数量的な分析はできないが、そこに登場してくる字(現在の小字)がいくつも出てくる。それを明治36年以後(現在の小字)と比較してみる必要がある。明治21年時期と明治36年後と同一か、あるいは明治36年の土地整理で小字の統合整理がなされたのか。

 一覧表の整理中なので結論は明日にもわかるかな。期待としては明治21年と明治36年では異なる結論が出て欲しいのであるが結果どうか。これまでのところ明治21年と同36年では同一の可能性が大である。果たして結論は?


【羽地(現名護市)仲尾次】2003.1.15(水)
 

 名護市仲尾をゆく。仲尾にある勘定納港。北山が中山の連合軍に滅ぼされた時、山原の国頭・名護・羽地・金武の按司達をはじめ中山の軍勢が終結した港だと伝えられている。そこに終結した軍勢が海路と陸路に分かれて今帰仁グスクを攻めたという。そのこともあって度々訪ねるのだが、その痕跡は未だ見つけ出すことができない。それは伝説のことなのかもしれない。そうであれば、見つかるはずがない・・・・
 それとは別に近世の琉球国の四津口(那覇・湖辺底・運天・勘定納の四つの港)の一つであることに間違いない。これまで描いてきた津口(港)の常識を覆す港に違いないと考えている。そういう空想めいた発想を胸に秘めながらの「仲尾ゆき」であった。はたして・・・・・(名護市仲尾で紹介)。

 旧羽地村(羽地間切)地域の森や拝所に石積みの祠をみることができる。香炉が置かれたところもあるが、丸い人形の形した石が置かれている場合が多い。ビジュルではないか。仲尾次の中城(ナカグスク)には二基ある。中腹に一基、そして頂上部の広場に一基。それらは中城グスク(御嶽)の二つのイビの可能性がある。そうであれば仲尾次(中城)は少なくとも二つの集団からなるムラと見ることができる。

 親川のメーダムイや田井等や稲嶺にある、石積みはビジュルのようである。

 水田の広がる羽地間切域に集中してあるものなのか興味深い。もう少し分布と、その広がり、そして祠の内部が香炉なのか、それとも人形の石なのか。また、どの祭祀と関わりがあるのかなどなど。

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  ▲名護市仲尾次の中城の中腹の祠     ▲中城の頂上部にある祠


〔羽地村(現名護市)仲尾次〕2003.5.20(火)

 名護市仲尾次をゆく。 かつては羽地間切仲尾次村である。今帰仁村にも仲尾次がある。「琉球国高究帳」や「絵図郷村帳」に中城村と登場する。『琉球国由来記』(1713年)には中尾次村、その後の乾隆二年帳(1737年)には仲尾次村とある。仲尾次村は真喜屋ノロの管轄である。仲尾次の集落の南側に神アサギやウプヤーやニガミヤー、ウェーマタガーなどの拝所がある。

 今帰仁村にも仲尾次がある。羽地間切の仲尾次村同様、中城から仲尾次に改称された。久米島の中城間切は仲里間切となるが、中城間切はそのまま中城間切である。

 仲尾次の集落はナカグスクやウイグスクのある故地から移動してきた伝承をもつ。現在地に移動した時期は近世中頃かと思われるが、移動した地の後方(南側)の山手にウプウガーミを設け、ウガーミを腰当にし、その麓から海岸に向って集落が発達している。故地にあるグスクは集落の西の方に見ることができる。故地にあるグスクの中腹と頂上部に石で囲んだ小さな祠がある。中腹の祠の側が焼けており、最近火事であったのでしょうか。ウガンする方々、線香の火の後始末はしっかりしないと。

 仲尾次の神アサギあたりから集落の中を歩いてみると、道幅の小さい道がいく筋にも走っている。馬車道だったのであろう。その頃は、その道幅でよかったのであろう。もちろん、車が交差できる道幅ではない。ところどころ整然と交差していない場所がある。かつての集落プランの面影を見ることができる。

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 ▲山手から仲尾次の集落。海は羽地内海       ▲中央部がナカグスクのある森

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  ▲グスクの中腹の石の祠で火事!      ▲グスクの頂上部にある石の祠(イベ?)

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    ▲公民館と広場と松のある森              ▲仲尾次の神アサギ


【瀬洲・源河】2003.5.7(水)

 
連休明けは気が重い。腰を上げるのに時間がかかる。また、休み明けはあれこれスケジュールが入る。今年の連休は、前半は伊平屋島。後半は一日は家でブラブラしたかったのであるが、買い物に出かけたら、つい名護市源河まで走っていた。そのまま戻るには、「まだ時間があるなぁー」一時間半ばかり・・・。ちょっと集落に入ってみようかと。まず、今では村名の消えた瀬洲村へ。さらに源河まで足を運んでみた。瀬洲は現在名護市の源河に吸収されているが、近世にあった村である。

 
『琉球国由来記』(1713年)に瀬洲村に源河之嶽があり、源河村に上城嶽、野国ニヤ嶽、源河神アシアギ、源河巫火神がある。瀬洲村には源河之嶽と掟神火神と瀬洲村神アシャゲがある。源河村と瀬洲村の両方に神アシアギがあり、源河ノロの管轄となっている(『琉球国由来記』で御嶽の部分で真喜屋ノロの管轄としている部分があるので注意を要する)。現在、源河に神アサギがない。昭和2年にクーグシクに拝所(お宮)をつくり統合してしまったようだ。お宮の内部で瀬洲と源河の拝所は区分している。

 瀬洲村跡は源河の東側の山の麓に細長く集落(メーガーと呼ばれているようだ)が展開している。そこが瀬洲村の故地から移動してできた集落である。故地の近くに瀬洲嶽(シーシウタキ)があり、その名残りをかろうじてとどめている。瀬洲村の源河村への合併の時期は今のところはっきりしない。明治13年の「県統計概表」に瀬洲村は見えない。また明治15年頃の『羽地間切神拝所』に「瀬洲内神火ノ神と瀬洲嶽」は出てくるが村名と神アサギは出てこないので、そのころにはすでに統合されていたのであろう。もう少し現場の踏査が必要だ。

 
瀬洲から源河のウーグシクまで登る。お宮のあるクーグスク(小グスク)はウーグスク(大グスク)に対する呼び方のようだ。そこには源河ウェーキ(豪農)の屋敷が残っている。前方は道路に沿って円形に石積みされ、門口の石積みは、ずれないように結構工夫をこらしている。石はほとんどが海石(珊瑚石灰岩)である。石積みのブタ小屋があり、屋根部分はアーチ型に削った石積みとなっている。

 源河ウェーキは国頭地方一、沖縄の三大ウェーキの一つだといわれている。明治14年11月上杉県令一行が羽地間切から大宜味間切への途中、源河ウェーキで小休止している。「国頭地方、第一の金満家」と表現している。

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 ▲源河の集落。右側の川は源河川 ▲源河ウェーキの屋敷の石積みの一部

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▲源河ウェーキの門の石垣     ▲同家のブタ小屋(ウヮンプル)の跡

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     ▲同家の勝手口の門          ▲瀬洲集落のカー(前湧泉?)