羽地域の歴史とムラ(2)(名護市羽地)

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2003.9.30(火)
【旧羽地村川上(谷田)をゆく】
 旧羽地村川上(現在名護市)まで車を走らせた。先日、通ったとき谷田神アサギあたり工事が入っていた。昨日「完成したのかな?」と立ち寄ってみた。

 旧羽地間切の谷田村は『絵図郷村帳』と『琉球国高究帳』に「こくてん村」「川上村」と登場してくる。『琉球国由来記』(1713年)でも「谷田村」「川上村」が出てくる。その後の 『御当国御高並諸上納里積記』(1738年以降)には「川上・谷田」と二カ村が併記され、同じ頃の『琉球一件帳』にも川上村と谷田村が出てくる。「具志堅の歴史」でもそうであるが、どうも近世末に村の統合が各地であったようだ。それを直接示す史料に出会えていないのだが・・・。

 谷田村は明治初期(近世末か)には川上村に統合されたとみえ、『沖縄島諸祭神祝女類別表』(明治17年頃?調査)の川上村に「神アサギ二箇所、川上嶽、谷田嶽」などと記されている。谷田村が川上村に統合されて、そう歳月が経っていない時期の資料であろう。明治の初期以前に統合された村の神アサギが現在まで残されている。具志堅の真部と上間の神アサーギは昭和16年頃に統合され、今では神ハサーギの跡が辛うじて伝わっている状況にある。

 谷田村はホードゥと呼んでいる。ホードゥに何故「谷田」の文字を当てたのか。かつての谷田あたりの地形を想像してみると、羽地大川流域の水田の広がる地域である。水田地帯に田の字を当てたのは理解できる。ホーが谷とどう結びついてくるのか?地形的には小さな谷の多くあった場所である(現在では土地改良で、その姿は消えてしまったが)。「水田と谷の多い」村ではあるに違いないが、ホードゥと谷田と結びつけるには方音の紐解きが必要のようだ。

 それは別にして、ホードゥヌ神アサギが新しく作り変えられたのである。


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▲新しく完成した谷田の神アサギや鳥居   ▲右側のコンクリート建てが神アサギ

2003.12.24(水)
 23日は名護市の済井出(屋我地島)の集落、古宇利大橋の橋詰。湖のような羽地内海に面した屋我・仲尾次・仲尾・呉我、そして今帰仁村の湧川を通り今帰仁村へはいる。今日の今帰仁村内の目的地は今帰仁グスクと歴史文化センター、午後から古宇利島。数日前から荒れていた冬の空模様から、一転して気持ちいい、空気の澄んだ最良の天気。神奈川県からやってきた明治学院大学の学生20名とゼミの教官二名を案内。

【名護市済井出】
 済井出の民宿に早めに到着したので、済井出の海岸と集落内を歩いてみた。穏やかな朝。集落は砂丘(兼久)に碁盤(格子)状に発達している。済井出の海岸はウフドゥマイと呼ばれ「大きな泊」の意味でろう。海岸に小島が散在。その向こう側に古宇利島の横太原あたりが見える。砂を掘るとアサリが採れそうだ。民宿の近くに、
    済井出美らじまや
     しまうちゅき美らさ
     大石森くさて
      馬場めぇなち
の碑が立っている。ちょうど屋我地荘から公民館を結ぶ道路が、済井出の集落をアガリ(東)とイリ(西)に二分する境界線になっている。境界線を海岸から反対の方向に進むと公民に到着する。公民館の前に教会がある。さらに進む、左右に細長い道路と草花を植えた公園らしいところがある。公民館の近くにアコウの大木があり、休日なので早朝から子どもたちが遊んでいる。アコウの大木の前の直線がマーウイ(馬場)である。

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  ▲済井出の海岸にたつ琉歌稗        ▲マーウイ(馬場)跡で遊ぶ子どもたち

 上の琉歌で「大石森くさて」「馬場めぇなち」と謡われていることから、集落の後方に大石森を背に、前方に馬場があったという認識がある。大石森はどれなのか確かめていないが、集落は現在地ではなく、もう少し山手の方にあったということになる。元の集落から移動した時期についてはっきりしないが、少なくとも近世に形成された集落の印象で持つ。歩いていると各家に井戸(掘り込み)があることに気づかされる。


2004.1.6(火)
【名護市呉我】
 正月元旦の日の出を見届けた後、名護市呉我まで行く。元旦の朝、十年余り朝日を見に行っている。ここ三、四年は一人で。いつの間にか子供たちはついてこなくなっている。それに連れも。お陰で朝日を確認して、自由奔放に麓の羽地一帯の集落を歩いている。

今年は呉我まで。呉我に気にいった長閑なカー(ビーガー)があり、正月の若水を汲みに来る方が今でもいるのか(途中で気づいたが、それは旧正なのだ)。ビーガーは清掃され水を汲む柄杓が供えてあった。側にハミダー(神田)があるが、田植えはもう行っていないようだ。旧暦の二月の大安にビーダウグヮンが行われる。

途中、呉我の神アサギに立ち寄るとムラの方々がアサギナーにゴザを敷いて新年の祈願祭が行われていた。古宇利島でも新年のウガンをお宮の前でやっているようだが、名護市呉我でも行っている。

呉我の集落の後方の鍛冶屋原(カンジャーバル)までいく。『沖縄県国頭郡志』に、   
       呉我の後方に鍛冶屋原があり、古へ官立の鍛冶職を置きたる所
       なり。元各間切の農具は官給にして人民は、その代償として一定
       の租税を納めたりしが、後更めて各間切に鍛冶職を置き、而して
      人民の利便を図れり。県下各地にカンヂャーヤー原といえる地名、
      あるいは多くの其の跡地なりという。寛文九年(1667)十二月三十
      日附御教書の一節にいう。

    此中諸間切遣候、鍬、へら、はいし賃として百姓一人に付米一升五合づつ相掛、
    半分は公儀半分は鍛冶細工へ相納候処、百姓疲申候付未之春頃右出米差免、諸
    間切へ鍛冶細工二人づつ立置、夫引合相定候事


とある。呉我は1736年に今帰仁間切地内から現在地に移動した村である。上の文書(1667年)と呉我村(1736年に移動)の鍛冶屋の成立とは時代が異なる。1736年以降に呉我村に鍛冶屋が置かれたことに因んだ原名なのであろう。果たして鍛冶屋跡地を見つけることができるか?



2004.3.25(木)

【羽地(親川)グスク】
 これまでグスクを調査する過程で山原の村(村落)や集落移動についてみてきた。グスクを通してみてくると、集落は杜の斜面に発達している。それが次第に麓へおりている。その具体的な報告は「今帰仁グスクが抱えた村―今帰仁ムラ・親泊ムラ・志慶真ムラの移動―」として石野さんがまとめている。近世の集落移動は湿地帯の仕明(開墾)と関係が深そうである。近世の集落移動の研究のモデルになる論稿である。楽しみである!

 下の写真は親川グスク(名護市)にある火神の祠である。『琉球国由来記』(1713年)に出てくる「池城里主所(火)神」の祠とみられる。同書に「池城神アシアゲ」があり、親川グスクにある神アサギ(現在親川の神アサギ)のことと思われる。『琉球国由来記』(1713年)は、田井等村に二つの神アシアゲが置かれている。まだ親川村が創設される以前のことである。親川村は田井等村を分割して創設された村である。間切番所も置かれ、羽地間切の行政の中心となった。

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 ▲親川グスクにある火神の祠        ▲親川グスクにある神アサギ