2013年8月25日(旧暦旧盆明けの亥日)

 大宜味村謝名城の海神祭を見る。海神祭を見学するのは30年振りか。雨のため、ウイグスク内では行われず、城ノロドゥンチで行った。午後2二時頃から。

    (工事中)


       ▲根屋(喜如嘉)              ▲根謝銘の根神ヤーの祠


      ▲城ノロドゥンチ(城)       ▲ノロドゥンチの内部      ▲その日は外に向かってのウガンあり


 ▲雨でグスクまで登れないなどの挨拶い   ▲ノロさんの祈りあり      ▲山や海のものを配る


 ▲ノロドゥンチ内に縄を張って    ▲ノロとさんからお神酒を受ける区長    ▲カーカーをたたいて縄遊び


 例年行われているウイグスク内の拝所までいく。その前後、田嘉里の神アサギやヤマグチなどの拝所まで。それと屋嘉比ノロドゥンチまで。ノロドゥンチの庭でウシデークを行うと伺う(子の日:旧7月20日)。屋嘉比ノロ家の遺品については、日を改めて調査をすることを約束。



 謝名城での海神祭とは別に、喜如嘉の根屋、七滝、喜如嘉の「む かうち原」、ウイグスク(根謝銘グスク登り口)の「之 こすく原」の印部石(原石)が現存しているのを確認する(地域史で報告済)。
 
  

【屋嘉比ノロ】
 ウイグスク(根謝銘城)で旧暦盆明けの亥の日に城ノロ管轄の村(ムラ:謝名城・喜如嘉・大兼久・饒波)と屋嘉比ノロ管轄の村(ムラ:田嘉里・浜)が、グスク内でほぼ同時に行われる。屋嘉比ノロが管轄する村は田嘉里と浜である。城ノロを中心とした祭祀はグスク内を中心に行われる。グスク内の中城嶽(イベ)を拝む。

 屋嘉比ノロ管轄ムラの神人はグスク内の大城嶽(イベ)を拝み、そこでのウガンが終わると田嘉里の神アサギでウガンが行われる。翌日には集落内の何ヶ所かでウシデークが行われる。ノロ墓はなく村墓に葬っているという。

 屋嘉比ノロ管轄のムラ(親田・屋嘉比・美里・浜)の変遷は大宜味間切の創設と大きく関わっていることに気付かされる。1673年に国頭間切の大半と羽地間切から津波村と平南村をもって創設される。当初田港間切で後に大宜味間切と改称される。1673の間切創設(方切)の時、屋嘉比ノロ管轄の親田村・屋嘉比村・美里村・浜村は国頭間切に組み込まれた。ところが、1695年に方切がなされ、親田村・屋嘉比村・美里村は国頭間切から大宜味間切の村となる。その時、同ノロ管轄村であった浜村はそのまま国頭間切の村のままとなった。

 浜村がそのまま国頭間切の村となったのは、大宜味間切が分割される以前の国頭間切の番所が浜村にあったことに起因しているとみている(これまで国頭間切の番所は城や根謝銘にあったのではと考えていた)。1673年直後の国頭間切番所は浜村である。浜村から奥間村に番所が移転したのは1732年である。屋嘉比ノロ管轄の親田村・屋嘉比村・美里村が大宜味間切に移行した時、浜村に国頭間切の番所が浜村にあった。そのため浜村を大宜味間切に組み込むことができなかったと見るべきである。

 それと類似した事例は金武間切と久志間切の方切(1673年)で起きている。漢那ノロ管轄の村であった古知屋(現在の宜野座村松田)は当初久志間切の村となったが、1719年に金武間切へ戻る。それは漢那ノロ管轄の村が他間切の村となったことが起因している。それが元の間切へ戻ることが首里王府から許されたのであろう。屋嘉比ノロ管轄の田・嘉・里の三つの村の拝所がウイグスク内の大城嶽(イベ)(他間切)にある不都合が生じている。浜村が一緒に大宜味間切へ移行できなかったのは国頭間切番所があったからだと考えている。1732年に国頭間切の番所は浜村から奥間村に移転するがそのまま国頭間切の村となる。それでも祭祀は屋嘉比ノロ管轄でウイグスク(根謝銘)や田嘉里の神アサギでの祭祀に参加していた。それとガン(龕)は田嘉里と浜が共同出資で造っている(昭和18年)。

 


























































     大宜味村謝名城の海神祭
      
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