羽地(親川)グスク         
              (旧羽地間切:現名護市)

トップへ            分離した田井等村と親川村(名護市:旧羽地) 勘手納港

 親川グスクは羽地グスクとも呼ばれ、現在の名護市親川にある。18世紀中頃、親川村(ムラ)は田井等村と谷田村の一部をとって成立したという。親川グスクは丘陵の頂上部にあり石積や土塁がみられる。最頂上部に人工的な石積みが見られ、イベ置かれている石がある。

 親川(羽地)グスクのある場所は親川であるが、『琉球国由来記』(1713年)の頃は田井等村のうちである。『琉球国由来記』に田井等村にオシキン嶽の御嶽はあるが、親川(羽地)グスクを直接記されていないが、池城里主所神と池城神アシアゲとあり、間接的にグスクの存在を示している。

 親川(羽地)グスクをめぐる祭祀をみると、羽地間切の祭祀は仲尾村(仲尾ノロ)が中心となっていて、海神祭のとき、羽地間切の中(仲)尾・真喜屋・屋我・我部・トモノカネ巫(谷田村)・源河・伊指(差)川のノロが仲尾村の神アシアゲと池城(羽地グスクとみられる)神アシアゲで行っている。そこに羽地間切惣地頭も参加している。18世紀中頃、親川村の創設がなされたため行政村との対応が複雑になっている。

 逆に祭祀親川村の創設(田井等村と谷田村の一部)と谷田村の川上村への統合がなされるが、行政村の創設や統合がなされるが、祭祀は村の統合や分立以前の姿を踏襲しているのではないか。羽地グスク一帯を行政村と祭祀の関わりで見ていく必要がありそう。そこでも、祭祀は村の創設や分離があっても一体化しないという法則がそこでもみることができそうである。

 羽地間切の羽地の名称、それと羽地間切に同村名の村がないことなど、解き明かさなければならない課題がいくつもある。


       ▲羽地(親川)グスク                ▲親川城址碑


    ▲池城神アシアゲか         ▲池城里主所神か(羽地グスクにある)


            ▲親川(羽地)グスク内にある石積やイベか


▲羽地(親川)グスクからみた番所跡地(中央の杜) ▲グスクの手前のカー