トップへ              海の文化資料館公開講座レジュメ(平成20年11月16日)

       変貌期を目にしてきた研究者―仲松弥秀―
                    

                 仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター館長)


はじめに
 仲松先生と関わるようになったのがいつだった記憶にないのですが、沖縄の帰ってきた頃(昭和53年)、私は首里城にあった琉球大学にありました言語研究センターの設立当時、週に何回か通っていました。言語研究センターとは五年ばかり関わりました。ついて行けず言語では挫折してしまいました。言語研究センターの方言調査で各地を回りました。方言調査の合間に語る老人達の話にしだいに引き込まれていきました。各地の調査を手掛けるようになった頃から仲松先生の書かれた書物を手にするようになりました。民俗の世界にはまり調査をしている最中、名護市史で宮城真治資料の整理に声がかかり関わるようになりました。

 宮城真治資料を整理している最中、ショックを受けました。というのは、これまで大先輩方から戦前から戦後にかけての祭祀やムラの様子などの聞き取り調査をしていました。これまで、聞いてきた話が宮城真治資料に文字記録として残されているのです。これまで何を記録してきたのかと。そのショックで民俗から離れてしまいました。その時、民俗調査も時間的な概念を押し込むことで歴史資料になりうると実感しました。民俗の学問の時間の緩やかさが正確にあわなかったです。10年も50年も100年も昔の一言で片づけられてしまう。そのこともあって歴史の時間の区切が性格にあっていました。歴史の分野に入っていきました。その頃物にしたのが「今帰仁(北山)の歴史」と「運天の歴史」でした。

 その後、自分が書いてきたものを振り返ると言語、民俗、地理、歴史など、いずれの学問の手法を使ってひも解いています。学問や研究は目的ではなく手段だということをいつも念じてきました。その頃は「ムラ・シマ」をいろいろな学問でひも解いていこうとの方針をとりました。ですから、仲松先生とは民俗や地名などで教えを請うたことを生かしています。

 昭和53年から平成元年まで12年間大学で教えていました。あの頃、大学で週に10駒から14駒の講座を持っていました。言語では琉大にあった言語研究センターに顔を出し、南島地名研究センターの設立当初何年か関わりました。仲松先生の話を直に伺うことがあった南島地名研究センターでの研究会、今帰仁村の歴史文化センターが開館すると何度か訪れています。大宜味での調査の帰りなど。

2.仲松弥秀が歩いた場所(仲松弥秀ノートより)
 ・恩納村恩納(1971年)
 ・恩納村名嘉真
 ・恩納村山田(1968年)
 ・恩納村南恩納
 ・恩納村前兼久
 ・名護市喜瀬(昭和55年:1980)
 ・名護市宮里(1971年)
 ・名護市宇茂佐(1968年)
 ・名護市勝山
 ・名護市屋部(1968年)
 ・名護市山入端(1968年)
 ・名護市安和(1968年)
 ・名護市旭川(1968年)
 ・名護市為又(1968年)
 ・名護市世富慶(1968年)
 ・名護市数久田(1968年)
 ・本部町備瀬(1969年4月)
 ・本部町具志堅(1969年4月)
 ・本部町浜元(1969年5月)(昭和44年)
 ・本部町謝花(1969年5月)
 ・本部町古嘉津宇(54年4月)
 ・本部町健堅/浦崎/備瀬/謝花/具志堅/伊野波
 ・本部町瀬底島/石嘉波(50年2月)
 ・本部町水納島(1963年5月)
 ・今帰仁村仲宗根
 ・今帰仁村湧川(窪先生)
 ・今帰仁城の前面の石垣囲について(昭和47年の新聞記事あり)
 ・今帰仁廻り(1984年6月)
 ・今帰仁村天底(1984年7月)
 ・今帰仁村玉城
 ・名護市(羽地村)振慶名(8月)(湧川の振慶名跡地の確認)
   チグは唐船の鋼材、トンジュは塗料(実:シブ)
 ・今帰仁村崎山(1972年7月)/諸志/
 ・今帰仁村古宇利島(昭和53年11月)
 ・本部半島(本部・今帰仁)(1972年8月8日〜11日)
 ・羽地(1972年8月15日)
 ・羽地村屋我(7月)
 ・今帰仁村上運天
 ・古宇利(8月19日)
 ・今帰仁村クボウヌ御嶽(登っている)
 ・名護市(羽地村)古我知
 ・本部町水納島(1980年9月)
 ・名護市(羽地村)我祖河(昭和50年3月)小川・上地・新島)
 ・名護市振慶名(8月29日)
 ・名護市(屋我地島)我部・松田
 ・名護市(羽地村)仲尾(1967年)故地も調査
 ・名護市(羽地村)親川・田井等
 ・名護市(羽地村)我祖河/伊佐川/古我知
 ・名護市(羽地村)真喜屋/川上/済井出(1971年9月)
 ・本部町伊豆味
 ・大宜味村大宜味(1963年2月)/大兼久
 ・大宜味村津波/大宜味
 ・大宜味村根路銘/根路銘上原(1968年12月)
 ・国頭村辺土名上島
 ・大宜味村屋古/塩屋
 ・大宜味村謝名城/城/田嘉里(屋嘉比・親田・見里)
 ・国頭村宇良(1969年5月)(昭和44年)
 ・大宜味村喜如嘉(1971年8月)/屋嘉比
 ・大宜味村押川(1971年8月)
 ・大宜味村城(1971年8月)
 ・大宜味村謝名城(昭和49年1月)/津波
 ・国頭村比地
 ・大宜味村塩屋の海神祭(1980年)/田港/屋古
 ・国頭村安波(辺土名にて安波生まれkら)/与那
 ・大宜味村謝名城(昭和59年9月)鏡地の民宿にて根神大城しげ氏から)
 ・大宜味村大宜味(昭和50年9月)
 ・大湿帯(名護市)調査(1982年2月)
 ・名護市仲尾(海神祭調査)1970年7月/川上の海神祭調査
 ・国頭村安田の大シヌグと海神祭(1970年8月7日?)
 ・国頭村辺戸(安田〜奥への橋破れ与那経由で辺戸へ)
 ・国頭村伊地の海神祭(1970年8月8日?)(昭和45年)
 ・国頭村宇嘉と辺野喜に立ち寄る(昭和51年5月)
 ・国頭村辺土名
 ・与論島について(林清国氏より聞く)浦添市城間にて(昭和51年4月)
 ・国頭村佐手(1971年1月)
 ・国頭村辺戸(昭和50年2月)
 ・国頭村安須杜(1986年6月)
 ・国頭巡遊(昭和50年4月1〜3日)鏡地民宿/謝名城の根謝銘/佐手/辺野喜
  /宇嘉/宜名真/辺戸/安田
 ・金武町屋嘉(1961年5月:昭和36)/伊芸
 ・1969年度野外調査・巡検(2月27日〜3月4日)(30人)
  宜野座村の漢那・惣慶・福山・宜野座・大久保・松田・松田旧上原
  二年次
中山・伊豆味・我呉山・玉城・大井川・親泊・備瀬・渡久地・屋部 
 ・宜野座村漢那/惣慶/宜野座/松田
 ・名護市辺野古(1988年4月)(昭和63年)
 ・名護市(久志)汀間のウンダカリ(昭和49年11月)
 ・名護市(久志)安部(1972年5月14日)
 ・名護市(久志)安部(昭和50年9月)
 ・名護市(久志)嘉陽)/久志(1967年)
 ・名護市(久志)瀬嵩(1970年)
 ・辺野古/久志/惣慶(昭和51年4月)
 ・名護市久志(昭和52年2月)/瀬嵩
 ・東村平良(昭和50年12月)
 ・国頭村奥(1972年)

 ここには先生が訪れた場所のみ記しましたが、山原のみのノートかと思います。記されたメモはムラ・シマを調査する上で貴重なキーワードとなります。ここに抜き出したのは山原が中心ですが、全県に及びます。奄美大島も。仲松先生が、訪れた村々で生まれた発想が「神と村―沖縄の村落」や『うるまの島の古層』に収斂されていったのでしょう。このノートのメモをみると、論文にしたことの再確認のための踏査ではなかったか。そんな感想を持っています。

3.『神と村―沖縄の村落―』
 私が島袋源一郎の甥だとわかると「沖縄の村落」の未発表の原稿があるはずだが、知らないか?と。仲松先生をはじめ何人かの方々に聞かれました。特に仲松先生は何度も聞かれました。そのことがあって平成2年頃だと記憶していますが、関西まで飛びました。残念ながら、残されていませんでした。まだ望みは捨てていませんが。仲松先生のあの質問が、私が山原をはじめ各地の「ムラ・シマ」を踏査し続けているのは、そのことがあってのことだと思います。集落を区分する「…バーリ」や「…ダカリ」などの調査、神アサギ、ウタキ、グスクなどをキーワードにした調査は、島袋源一郎の「沖縄の村落」を少なからずイメージしながら調査をしています。いつの間にか。

結 び
 平成元年の4月に今帰仁村で資料館を建設するのでと乞われました。今帰仁村に行くまでは名護市史と10年ばかり関わっています。夏休みや春の休みになると名護市史に入り浸っていました。その間、角川の「地名辞典」の執筆をするようになりました。原稿の督促に追われていたように思います。旧羽地村と今帰仁村の一部の項目を書き上げたように記憶しています。それと名護市史の「わが街わが村」の歴史部分(羽地から久志)の執筆を分担しました。そのようなことをしている間、仲松先生と何度もお合しています。辺野古の字誌の小地名調査に同行しています。先生のノートにありますが、1988年(昭和63年)の辺野古の字誌調査に参加しました。私はいつだったか記憶にありませんでしたが昭和63年のことだったのだと。

 平成元年から今帰仁村の歴史資料館(現在の今帰仁村歴史文化センター)づくりにまい進することになります。昭和53年頃から今帰仁についてコンスタントに調査や資料紹介などやっていました。その時に書き上げたのが「今帰仁の歴史」と「運天の歴史」でした。その後に「今帰仁のムラ・シマ」という、今ではまぼろしの本ですが三か月で発刊しました。その「ムラ・シマ」というタイトルが後々、仲松先生同様現場でもの考えるという手法へとつながっていきます。そのことは今でも継続中です。仲松先生のノートはどこかで整理されているようですが、私も何名かのノートの整理をしてきました。その中の一つに「新城徳祐資料―調査記録ノート」があります。記録ノートを整理していると、メモひとつが貴重な資料になる場面が多々ありました。そして膨大な写真資料。ノートの整理の大変さを何度も経験してきました。

 そのこともあって自分のノートは自分で整理する、誰も読めないこともあって、数年続いているHPでのメモや記録などの紹介です。私のノートは文字ではなく記号なので他人が理解できるものではありません。100冊余のノートがありますが、誰もが整理できるものではありません。それでHPで日々のメモに画像を添えて紹介しているのです。それは仲松先生から現場でものを考える、言葉を発するなど、多くのことを学んだと感謝しています。

 先生のノートのメモからもわかりますが、今では聞き取りすることのできないキーワードが数多く含まれています。具体的に触れることはできませんでしたが、戦前・戦後大きく変貌してきた時代を目にしてきた研究者の一人だと思います。

   ※原稿は講演当時のままとしました。