「羽地域の歴史」を書き記すために、関係する現在の羽地大川、名護市屋部川、名護市の三府龍永碑記、我部祖河川(上流部は金川)、勘定納港、田井等村(後に親川村)の番所跡、羽地(親川)グスク、村移動(方切)した呉我・振慶名・我部、そして移動前の地などを踏査してみた。羽地間切内の印部石(ハル石)なども。

 これまで記録してきた羽地域関係の報告をここにまとめ、「羽地域の歴史とムラ」として整理します。


2003.1.7(火)
 天気がよかったので名護市の真喜屋と稲嶺までいってみました。真喜屋については小川徹先生がや島袋源七先生の研究があります。琉球大学図書館の島袋源七文庫に真喜屋や稲嶺の風水や土地整理(地割)などの貴重な史料が残っており、それらの史料を使ってみると面白いのだが、現場に合わせてみていくとなかなか手強いです。手がけた方々の多くの声もそうです。

 これまで報告された「真喜屋の研究」そのものが非常に難解です。もう少し単純に見て、そして入いていけたらと考えています。そのために、真喜屋を構成している基本的な集落の景観や御嶽や神アサギやヌルドゥンチやカーなど、ムラを読み取っていける過去を彷彿できるポイントに立ってみることにします。「真喜屋をゆく」で報告しますが、ここでは、御嶽と御嶽の中の植物、御嶽の中のイベ。祭祀を掌る真喜屋ノロの住宅跡(ヌルドゥンチ)など。真喜屋も御嶽―神アサギ―集落を軸として展開している基本的なムラです。

 ここで興味深いのは御嶽の中のイベの向きです。高い山手に向いているのではなく、北?(海)の方向に向かって拝むということです。またヌンドルゥチの火神や位牌などの向きも北側になっています。真喜屋の拝所は、どうも北の方に向かうものと、御嶽に向かう二つの方向性があるのかもしれない。神アサギはメークミドゥンチは御嶽、ウッチ火神の祠やアハチャビの拝所は北向きです。その違いは神の来訪と関係あるのであろう。それは神が一つでなく、多彩な神の存在を観念として認識している証なのであろう(一つに結論づけようとする発想は慎まなければならない)。

 集落の中を歩いてみると神アサギへの神道、放射状に広がる旧集落、集落を中を通る水路、そしてペーフドゥンチやニガミウガンなどの拝所、そしてカーなど、かつての集落がまだ確認できます。

   
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▲真喜屋の「上之御嶽」への上り口      ▲クバが繁茂している

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    ▲御嶽の中の祠(イベ)          ▲真喜屋のろ殿内跡


2003.1.15(水)
 名護市仲尾をゆく。仲尾にある勘定納港。北山が中山の連合軍に滅ぼされた時、山原の国頭・名護・羽地・金武の按司達をはじめ中山の軍勢が終結した港だと伝えられている。そこに終結した軍勢が海路と陸路に分かれて今帰仁グスクを攻めたという。そのこともあって度々訪ねるのだが、その痕跡は未だ見つけ出すことができない。それは伝説のことなのかもしれない。そうであれば、見つかるはずがない・・・・
 それとは別に近世の琉球国の四津口(那覇・湖辺底・運天・勘定納の四つの港)の一つであることに間違いない。これまで描いてきた津口(港)の常識を覆す港に違いないと考えている。そういう空想めいた発想を胸に秘めながらの「仲尾ゆき」であった。はたして・・・・・(名護市仲尾で紹介)。

 旧羽地村(羽地間切)地域の森や拝所に石積みの祠をみることができる。香炉が置かれたところもあるが、丸い人形の形した石が置かれている場合が多い。ビジュルではないか。仲尾次の中城(ナカグスク)には二基ある。中腹に一基、そして頂上部の広場に一基。そして親川のメーダムイに一基。田井等・稲嶺にもある。
 水田の広がる羽地間切域に集中してあるものなのか興味深い。もう少し分布と、その広がり、そして祠の内部が香炉なのか、それとも人形の石なのか。また、どの祭祀と関わりがあるのかなどなど。

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 ▲名護市仲尾次の中城の中腹の祠    ▲中城の頂上部にある祠


2003.2.14(金)
 羽地間切の「仕明地調綴」(明治21年)がある。綴りがあるのは羽地間切の真喜屋村・済井出村・源河村・稲嶺村・仲尾次村・田井等村・親川村・伊差川村・我部祖河村・古河知(古賀治)村・呉我村・我部村・饒平名村・屋我村である。仕明地の数量的な分析はできないが、そこに登場してくる字(現在の小字)がいくつも出てくる。それを明治36年以後(現在の小字)と比較してみる必要がある。明治21年時期と明治36年後と同一か、あるいは明治36年の土地整理で小字の統合整理がなされたのか。
 一覧表の整理中なので結論は明日にもわかるかな。期待としては明治21年と明治36年では異なる結論が出て欲しいのであるが結果どうか。これまでのところ明治21年と同36年では同一の可能性が大である。果たして結論は?


2003.2.15(土)

 「仕明地調綴」(明治21年)の字(小字、原)と現在のを比較してみた。村によっては七割ほど合致するが、屋我地島の我部・屋我・済井出・饒平名の四つの村では2割程度しか合致しない。資料の性格にもるものであろうが、明治j21年から明治36年にかけて小字(原)の大幅な組み換え(統廃合)がなされているようだ。
 今帰仁間切の平敷村でその結果をみることができるが、羽地間切地域ではどうなのか確認してみる必要があった。結論として「大幅な小字(原)の編成替えがあった」ということ。(明治21年と同36年の小字(原)の比較表は4頁ほどあるので省略)。小字地名は村(現在の字名)について、検討されなければならない。場所を特定したところで論をたてなければ砂上の楼閣となってしまう可能性が大である。そういった意味もあり地名の範囲特定や変遷は重要である。地名の指し示す場所や土地の特定は、机上の論や語義論に終始しないためにも有効である。
   


  ▲『仕明調帳』(明治21年)

2003.5.20(火) 

 名護市仲尾次をゆく。 かつては羽地間切仲尾次村である。今帰仁村にも仲尾次がある。「琉球国高究帳」や「絵図郷村帳」に中城村と登場する。『琉球国由来記』(1713年)には中尾次村、その後の乾隆二年帳(1737年)には仲尾次村とある。仲尾次村は真喜屋ノロの管轄である。仲尾次の集落の南側に神アサギやウプヤーやニガミヤー、ウェーマタガーなどの拝所がある。

 今帰仁村にも仲尾次がある。羽地間切の仲尾次村同様、中城から仲尾次に改称された。久米島の中城間切は仲里間切となるが、中城間切はそのまま中城間切である。

 仲尾次の集落はナカグスクやウイグスクのある故地から移動してきた伝承をもつ。現在地に移動した時期は近世中頃かと思われるが、移動した地の後方(南側)の山手にウプウガーミを設け、ウガーミを腰当にし、その麓から海岸に向って集落が発達している。故地にあるグスクは集落の西の方に見ることができる。故地にあるグスクの中腹と頂上部に石で囲んだ小さな祠がある。中腹の祠の側が焼けており、最近火事でもしたのでしょう。ウガンする方々、線香の火の後始末はしっかりしないと(何の為のウガンですかね)。

 仲尾次の神アサギあたりから集落の中を歩いてみると、道幅の小さい道がいく筋にも走っている。馬車道だったのであろう。その頃は、その道幅でよかったのであろう。もちろん、車が交差できる道幅ではない。ところどころ整然と交差していない場所がある。かつての集落プランの面影を見る思いがする(メモ書きより)。

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  ▲山手から仲尾次の集落。海は羽地内海    ▲中央部がナカグスクのある森

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▲グスクの中腹の石の祠。火事!   ▲グスクの頂上部にある石の祠(イベ?)

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 ▲公民館と広場と松のある森            ▲仲尾次の神アサギ

2003.7.1(火) 
 琉球大学図書館の「島袋源七文庫」に『土地整理ニ関スル書類綴』(真喜屋村・稲嶺村事務所)(明治32年)がある。最後の土地替え(地割)の協議事項認可申請書である。今帰仁間切(村)では、このような地割に関する文書資料がまだ確認されていない。

 羽地間切真喜屋村と稲嶺村の土地替えの「旧持地数」と「新持地数」、その「変更の事由」を見ていくとだけでも、当時の土地配分(土地替えの変更)の様子が見えてくる。配当を受ける年齢の家族が増えたり、配当を受けていた人が死亡などで減になったり、雇人の分は雇主が配当を受けていたが今回は雇人本人に配当されているなど、なかなか興味深い。

 下の表には見えないが、
     宿道ハ幅八尺以上トシ左右ニ各六尺ノ余地ヲ置キ(水田貫通スル
     時ハ余地ヲ設ケズ)
     脇道ハ幅五尺以上、原路ハ幅三尺以上、防堤ハ幅七尺トスル事
などと、当時の道筋の幅なども規格があり管理されていたことがわかる。また、二十歳を過ぎて新しく屋敷の配当を受ける場合、屋敷は四十坪を超えることは許されなかった。因みに明治三二年「分家ノ為ニ屋敷地トシテ配当スベキ人」は三二名いた。
     満二十歳以上ノ者ニシテ新ニ屋敷ノ配当ヲ受ケントスル者ハ明治
     三十二年六月三日迄ニ申シ出ル事但一戸ノ配当坪数ハ四十坪ヲ
     越ルヲ許サザル事  
新持地数 旧持地数 変更の事由  番地身分屋号 氏 名
壱地五分 弐地五分 配当ヲ受クベキ人員ノ減少セシニ依ル 一番地平民蔵原屋 親川平三郎
三地五分 四 地 配当ヲ受クベキ人員ノ減少セシニ依ル 三番地平民舛取屋 島袋善三郎
弐 地 参 地 仝  上 四番地平民□門 島袋善太郎
弐地七分 壱地五分 配当ヲ受クベキ人員ノ増加セシニ依ル 五番地平民上里屋 上里角次郎
弐地五分 弐 地 仝  上 六番地平民ヨガフ屋 与那嶺豊三郎
壱地五分 雇人ノ配当地ハ其雇主ニ配当セシモ今回ハ本人ニ配当セシニ依ル 七番地平民宮里屋小 宮里吉蔵
弐地四分 壱 地 配当ヲ受クベキ人員ノ増加セシニ依ル 九番地平民宮平屋 宮平林三
   (続くが以下省略)
                  

                  ▲「持地人各自の持t地数」の一部

 (工事中)




 ▲田井等からみた銅山のある伊差川



 ▲田井等と親川が共同で建設

 
  ▲奈佐田川                 ▲我部祖河川の下流域




   ▲呉我(河口付近)


 ▲羽地ダムからみた田井等付近 


 ▲改決羽地川碑記
























     羽地域の歴史とムラ(1)(名護市羽地)

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