(続)

・仲嶺盛仁(今帰仁村仲宗根)

・本部町伊豆味から乙羽岳へ
 乙羽岳へ登る裏斜面には大きな岩場があってそこを渡って行ったが、数え73才のウンメーは杖をついており、岩場で転んで眼のふちに切り傷が入った。老いたウンメーはなんといたたましい姿だったことか。二女良子が健二の子守役としてつけられ、良子におんぶされ栄養のとれない叔母さんにオッパイの出る筈がなく、敏子はおなかをすかして泣き続けた。

 乙羽岳へたどりつくと部落の見える斜面に野宿した。大人はみんな姉達も含めて女だった。女と子供の一族の集団である。はじめて寝る山の斜面は寝心地の悪いところだったが、真夜中に雨が降り出してずぶ濡れになった。4月も半ばを迎える頃で寒かった。赤ちゃんの敏子も一緒である。敏子の生命力を考えると驚嘆である。乙羽岳の夜明けは凄かった。はじめての体験であったが、一面霧が立ち込めて視野不良となっていた。そんな中で長女敏子が御飯を炊いてもってきていたが、十分炊けておらずグヮーグヮーだった。ずぶ濡れの中でどんな風に火をおこしたのか不思議である。

 雨があがってきて視界がよくなった時、天底あたりを見ると、なんと米軍が大通りを一列になって歩いているではないか、初めて見る上陸米兵。みんなを呼んで見せた。盛治と二人で小屋を作ろうと思い立ち頑張ったがなかなか作れない中、セイグヮヤーのタンメーが作った小屋をもらったが、空がよく見えていた。タンメーは情報を得るためと言って部落へおりて行ったが田んぼで米兵と出会い、止まるようにという米兵の命令を無視したため射殺された。これから後、食糧難や特にマラリヤにおかされることなく一人暮らしのタンメーの苦難は終わった。

・伊豆味の様子
 二、三日あとに誰かが老人を残してきた仲原家の壕へ様子を見に戻ってみた。驚いたことに老人達は元気で私達が出た後すぐ米兵がやってきてお菓子などをあげ、心配しないようにと手話で伝え去って行ったおとがわかった。老人の一人にトゥカシキ(渡嘉敷)のおばあちゃんがいて、貰ったお菓子は孫の宗昭君の手に渡っていたが、きっと毒入りだと言われて食べずに持っていたが、タツミヤの叔父さんが見て「ほう、チョコレートだ」と受け取り、私達の目の前でムシャムシャ食べてしまった。米軍は住民に決して殺すことはしないという話が乙羽岳の避難民に急速に広まっていった。

 八重岳の宇土大佐率いる宇土部隊は、大砲二門をもって伊江島飛行場への援護射撃を任務としていたが、一米軍は伊江島の攻撃より先に八重岳を包囲一発の大砲の発射もないまま、4月14日夜八重岳を脱出羽地の多野岳へ向かった。後に「宇土部隊の逃げ部隊」と住民に言われていたが、中国で戦争を経験し、彼はこちらでの結末を知っていて弾を打たせてなかったから被害が少なくてすんだと評価する声もあった。

 4月13日の夜我が父盛財は六、七人の防衛隊仲間で竹やり隊を結成し「斬り込み」と称して堂々と脱走してきた。途中歩哨兵がやってきて「山!」と声をかけてきたが、味方の暗号でである「川!」と答えた。その昼、どうも軍の様子がおかしいのに気付いた。父の壕の隣に通信兵達がいて盛んに最前線と連絡をとっていたが、次第に連絡が途絶え「あっちもだめ、こっちもだめ・・・」となり、包囲網がせばまっていることに気付いた。その中慰安婦達へ解散命令が出された。父は仲原の英篤叔父さんを呼んで「逃げよう」ともちかけたが、叔父さんは「ヤッチー(兄貴)よ、兵隊が逃げたら後でどうなるか知っているか」と反対したが、「よく様子を見てごらん」と説明したら納得し、同志を募って出て来たという。後一日、遅れていたらダメだったと話していた。

・乙羽岳での様子
 特攻機が連日のようにやってきて、米艦隊を攻撃、軍艦からは一斉に高射砲が発射され空中で爆発して黒煙を残していた。乙羽岳からの目撃である。そんなある日、山の麓で避難民が火をおこして炊事をしていて、その煙が偵察機に発見され、突然砲撃された。至近距離だ。遠方へ飛んでいくのと音が違う。海からの発射音が聞こえたかと思うと、不気味な音を引いて落下して爆発した。発射音を聞いて、この弾で自分が最後になるかと思った。ウンメーは私達がひそんでいた岩場から出てハシヌメーへ行く途中の山頂で、この砲撃にあった。

 大きな岩を背にして座っていると、爆発によって吹き飛ばされた土がさらさらと落ちてきたという。「今日一日生きれば長生き!」と言われていた言葉を毎日思い返していた。栄養もとっていない私達にノミやシラミがたくさんついていた。着物ジラミは米粒ほどの大きさで、卵も白く透明で大きくそれをつぶしていたが、減ることはなかった。用事で近所の照屋の叔父さんが来ていたが、シラミが襟から歩いていた。

・謝名部落(トーヌカ)へ降りる
 食糧が底をつき、一口一食のお粥だけとなった。そんな時、何故か盛治が一人訪ねてきたのを覚えているが、彼も同じようにお腹をすかしているだろうと、見ていたことが思い出される。「山から降りよう」と言うのが父の決断だった。「米兵は人を殺さないから米兵を見たら両手をあげんなさい」と父はみんなに話していた。山からは謝名部落へ降り、仲宗根との境あたりにあった巨大な岩からできたトンネルに掘られた壕へ入った。夜間、仲宗根方向の近くが砲撃されており、もの凄い爆発音が続いた。一夜明けてみると、なんと多くの避難民が降りて集まっていた。そして数百米先の農道を米兵達が大きな声を出しながら通って行った。みんな立すくむようにしてその光景を見ていた。

 そこの壕から部落内へ食糧を求めて決死の覚悟だったと思うが、母ツルと寒川の長女敏子に叔母さんの三人で出かけた。アサギ近くにあったビワ園のところまで来ると、なんと二人の米兵が上半身裸でビワを食べているではないか。引き返すべきか、進むべきか迷ったが母は進む道を選んだ。ぬき足差し足で近づいて行った。いきなり大声で「オイッ」と言うなり裸の背中をしたたか叩いた。敵地にいて不意をつかれた米兵はびっくり仰天、腰を抜かさんばかりに驚いていたという。相手は住民であり女性である。三人は笑顔をつくって手話をはじめた。食料をさがしていると。母は二人の米兵を引き連れて行って食糧探しを手伝わせ、荷物を持たせ、帰りは途中までおくってもらった。したたかに生きた三人の女性である。三人は笑顔で興奮気味で、その模様を話していた。

 翌日、完全武装した米兵20人ほどがやってきた。母等が部落内から帰ってきたその道を通って、みんな壕から出てきて両手をあげた。米兵らの機嫌はよかった。近くで初めて見る米兵、印象は目がくぼんで彫りが深く、誰いうともなくウンチューグヮー(盛銀叔父さん)に似ているということだった。鉄兜をぬいで私にかぶせて笑う者もいた。鉄砲から弾を抜いて私にかまえさせ、引き金を引かせる者もいた。壕の側で銃を抜いて「デーテコーイ デテコーイ」という者もいた。そんな時、空をグラマン機がやってきた。私は米兵はどう反応するかと思い、隠れようとした。米兵は心配ないよと言った素振りで止めてくれた。ここはもう占領地になっていると思った。逆に友軍からは敵地になり「友軍機だ」と山で夜中火を消さずにいたところ、急降下爆撃にあい命をおとした者も出た。住民には米兵は敵意を持っていなかった。そこを去る時、私にチーズをかじってくれた米兵がいたが、毒見をして見せたのだと思った。生ぐさいチーズはおいしくなかった。

 それから諸喜田平吉さんをたよって広い大きい家の裏座敷に同居させてもらった。叔母さん達は確か近くのシチダヤー(イサヤーか)の離れに移って行ったと思う。製糖期を迎えており、一家で農家の平吉さんの手伝いもしたし、家畜もいたので山羊の草刈りの手伝いもやった。部落へ降りてきた避難民たちはカタツムリをよく食べ、貝塚のような山があちこちにできていた。農薬のlない当時のこと、カタツムリはよく繁殖jしていた。カタツムリにとっても戦争は大変迷惑であった。不況な今でもカタツムリは枕を高くしてねむることができる。

・成人男子狩り
 やがて、米兵らによって成人男子狩りが行われた。羽地に連れて行って金網の中に入れられた。捕虜と私たちは言っていた。米軍は捕虜を彼らの作業(役務)に使った。米兵がやってくると男子はみんな近くの藪の中に逃げた。女性の拉致事件も相次いでいた。英篤叔父さんや永山の兄さん達はイシジャチ(岩山)に隠れていた。日本兵捜索してすぐ近くまで米軍が来ているのを知らなかった永山の兄さんが、岩場に隠れている最中大きなクシャミをした。近くにでイチゴを食べていた米兵がびっくりして空へ向けてパンパンと鉄砲を撃った。兄さんはびっくりした思うが、米兵もびっくりしてのことだと思う。

 一度部落から山にかけて米軍の大規模捜索があり、寒川のおじいちゃんと三男の将さんが網にかかって連れて行かれ夜になっても戻らず、羽地の金網の中に入っていることがわかったが、将さんは捕らわれの身でありながらサトウキビを美味しく食べて、私を見てニコニコしていたが、心配ではないのかと思った。その時父は平吉屋の裏座敷で病人になって母達に熱もないのに水で濡らしたタオルを額において看病させて難を逃れた。米兵の急な来襲であったが、機転の速さは見事であった。

 部落民の私達には米軍から夕方何時頃から乙羽岳の砲撃をするから近づかないようにという情報が入った。また私達は今帰仁小学校付近にいる戦車隊が乙羽岳を砲撃するのも自由に見せていたので、見に行った。軍事での秘密主義をとる日本軍と大らかな米軍との差がはっきりしていた。

 次第に情勢が落ち着いてきたので、私たちは謝名ウイーバルの平吉(諸喜田)さんの所より焼け残ったタモウシ(玉城)の岸本のアヤーの所へ移った。叔母さん達はシチダヤー(諸喜田家)に残っていた。12坪ほどの茅葺の家には四所帯17人ほどの人が入っていた。

 運天港に上陸した海兵隊は軍用トラックに乗ってこの岸本家の前の道路を通ってひっきりなしに戦線へ送られて行った。こうして部落内にいる米軍とも仲良くなり気心も知れるようになった。部落の人達の中にはせっせと山中にこもっている日本軍に食料をもっていく者がおり、この人達から目をつけられた人がスパイ容疑で殺されていった。かねてこの人達は米軍のスパイだと言われていた与那嶺家の老人三人が真夜中に呼び出されて、刀で惨殺されたが、隣近所だったのでショックだった。この種の悲劇も沖縄戦の特徴で、あちこちで起こった。体に地を染めて倒れていた三人の姿をはっきり思い出せる私達も戦争の傷あとをいつまでも心に残している。ある意味では生き残った人々も被害者だと思っている。逆に米軍に探されているスパイ容疑者もいた。部落の崎山さんもその一人だ。

・収容所へ
 こんな生活をしていた6月□日の朝突然これまで住民に優しい印象を与えていた米軍達が完全武装した、こわばった表情で部落を包囲しはじめた。部落の高台には機関銃もすえた。不安と動揺が広がった。兵士達は部落民に銃を向け始めた。岸本家の私達のところへも兵士が踏み込んできた。「ハーバー、ハーバー」(急げ!)と大声を出し、家宝など大事なものをリュックにしまい込む私達にガチャーガチャーと弾を銃に込める音を聞かせて銃口を向けてきた。ぐずぐずは許されない。これまで何度も見てきた家族総立ちの危機的な移動である。

 謝名ウイバル(前原)のシチダヤー(諸喜田家)にいたら、なんでもなかった叔母さんだが、たまたま用事があって出かけていて、この事件に巻き込まれてしまった。盛治との別離がはじまった。米軍の誘導により子羊の群れである私達は玉城にあった闘牛場に集められた。途中高い所に立って一人ひとり見ていた兵士が父の着物のふところにある四角の盛り上がり見て指さし「何か?」と聞いた。父は取り出してタバコを見せた。

 大きい闘牛場に沢山の人たちが集められ、集められた人々をトラックに乗せ行き先も教えられずに運んでいた。日本軍の攻撃をためらわせるため最前線へ連れて着弾地に降ろすのだという噂が広がった。ありうることだと心配した。このトラックが戻ってくればわかることだと考えたが、台数が多く確認できなかった。舗装されてない道路を荒々しく砂ほこりをまきあげながら住民を乗せて行った。そうしている傍ら成人男子を一人ずつ呼んで尋問が行われている。他の人は帰されているのに父盛財だけは残されている。不安になって聞きにいくと、父は当時みなそうやっていたように偽名を使って「仲山」と言っていた所、先ほど書いた米軍の探している「崎山」ではないかと嫌疑がかけられたのだった。その結果、父とのしばらく別離が始まった。米軍トラックに乗せられる人に米軍に抵抗している者がいた。空手で立ち向かっている。よぼよぼの老人で米軍に通ぜず、つかまってトラックに放り込まれた。


(続く)


       ▲本部町伊豆味から見た乙羽岳の裏側               ▲乙羽岳から前方から見た海上

 
   ▲乙羽岳から天底、運天港方面を眺める       
 ▲仲嶺家が疎開した謝名の諸喜田家(現在)

※上の画像は2013.7.28撮影


 


























        今帰仁での戦争体験

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