トップへ                        2007/11/30(於:沖縄国際大学 南島文化研究所)

      地域博物館の果たす役割


                    仲原 弘哲(今帰仁村歴史文化センター館長:南島文化研究所特別研究員)

                    ※2007年11月現在の情報です。講演当時のままです。


はじめに
 1.地域博物館の分布
 2.歴史文化センターの活動と地域 
 3.調査・研究の成果は「すくみち」「なきじん研究」、そしてHPへ
 4.調査・研究の成果は企画展でも
 5.地域資料の収集と保存
 6.その他の活動
おわりに

はじめに

 沖縄県博物館協議会に加盟している機関が60余りあります。奄美から宮古・八重山に至っています。それらの機関が「博物館」の名称を持ちながら必ずしも登録「博物館」の条件を十分満たしているとはいえません。また、「博物館」の主体も緩和されてきていますが、それでも「博物館」としての条件を満たしているわけでもありません。博物館としての条件を満たしていないが、それらの機関が地域で博物館活動し、その一端を担っているので、それらの機関も含めて「地域博物館」としてとらえることにしました。「規模・学芸員数・収蔵資料数などによる定数・定量な方法によりその評価が行われているが、今後はこうした方法ではなく、博物館の理念に基づく機能や条件を、どれだけ実践しているかという活動内容を重視した審査を行うべきである」との方向に向かっているようです。

 地域博物館に対する地域のニーズは多岐にわたっています。平成元年から平成19年に至る「今帰仁村歴史文化センター」の活動を通して、地域博物館の果たす役割について考えることにします。その前に「今帰仁村歴史文化センター」が博物館なのか。博物館の条件を満たしているのか。その疑問もありますので、少しばかり説明します。

 今帰仁村歴史文化センターは「今帰仁村資料館準備室」の名称でスタート致しました。平成5年まで、この名称で事業を進めました。平成5年3月に条例の一部改正により「今帰仁村歴史文化センター」となりました。それは館を建設する補助金がどこから出るのかによる変更です。自治省の補助金を充てたため「博物館」の名称が使えなかったという経緯があります。博物館法に乗っ取っての運営・企画で進めていました。名称の変更はありましたが、内容については計画通りでしたので了承致しました。平成元年から5年までの準備室の活動は、静かな資料館や博物館のイメージを壊すような発想と動きでした。「館なくしての博物館活動」をしていました。「今帰仁村に19のムラ・シマがあり、そこに人々が生きている。村全体が博物館である」との理念を持っての動きでした。資料館や博物館のイメージではなく、歴史や文化など情報の発信地となる館にしていこうということもあったので「歴史文化センター」の名称は、活動や動きに沿ったものでした。


 現在、地域博物館にとって厳しい状況にあります。財政的、あるいは人的な面で。今進められているのは、予算の削減、そして他の組織との統合(博物館と文化財)などです。右下がりの流れの中で、博物が果たしている役割の重要さを認知させることで、入館者数で図られない地域博物館にする必要があると常々考えています。

 約6年間の準備室時代(館なくしての博物館活動)があり、平成7年5月に「今帰仁村歴史文化センター」として開館致しました。そのような背景をもつ歴史文化センターの活動を通して、生き残りを意図しながら「地域博物館の果たす役割」について報告いたします。

1.地域博物館の分布

 ここには「沖縄県博物館協議会」から県内と奄美諸島の博物館、あるいは博物館活動をしている施設と加盟団体を一覧表にしてみました。どの機関も活発な活動、あるいは静かに活動しているか把握していませんが、地域博物館として活動している施設がどの程度あるか把握しておく必要があると思い、一覧表と地図に落としてみました。それらの機関の動きを把握し、表に出していく役割を担う機関が必要であると痛感しています。というのは、各機関その後に報告する博物館活動を紹介しますが、マスコミが取り扱ってくれるかどうか。せっかく企画展や活動をしているのに、積極的にその情報を地域、あるは社会に情報が流れていないし片寄っているような気がしています。60近い博物館活動をしている機関の情報を把握し、後押しする機関あるいは要となる場所が必要だと痛感しています。現在、沖縄県博物協議会があります。この新館建設で事務局が県博を離れていますが、戻った時には、県内の地域博物館の情報を集約し、終わった情報ではなく進行中、あるいはこれからの情報を流していく、あるいは評価していく、そのような役割を担っていただきたいと期待しています。

2.歴史文化センターの活動と地域

 資料館準備室の7年間は、館の建設に向けて規模・性格・場所の決定・予算等の業務と資料の収集でした。その業務と両輪のごとく調査・研究を進め、その成果を機関紙(すくみち)に収録し、職員の学芸業務に向けての訓練でもありました。その成果は企画展に向け、さらに開館時の常設展示に反映させるとの方針をとってきました。まず、最初にスタートさせたのが「すくみち」という機関誌の発行でした。その中身は『なきじん研究』の2・4・6・8号に収録してあります。その「目次」を見ていくだけでも、当時の日々の動きや調査活動が具体的にわかります。
 そのことは次で説明するとして、ここ15年間継続している事業があります。それは平成5年からスタートした『ムラ・シマ講座』です。それは学校が第二と四の土曜日が休みとなったことでスタートした講座です。後の総合的学習へつながります。14期生(平成24年現在20期)まで出しています。雨天などの日を除いてほとんどフィールト(5月〜12月まで月1回の7、8回)での調査です。一年間、同じメンバーで行います。第二土曜日の午前中に行われますが、小学4年生を中心とした講座でしたが、今では大人も子供と幅広い参加者となっています。

 15年(平成24年現在20年)間続いているのは、参加者も企画する方も積み重ねていくごとに興味をひき、そして一歩踏み込んだときに、これまで思いこんでいた常識が覆っていく場面に何度も出会います。そして、やみつきになるのは、最後の報告の場面です。報告する一人ひとりの報告が異なることがいいのです。同じ答えに関心があるのではなく、自分と異なる考えやものの見方、それはなぜだろうか。一人ひとりの個性が見えてくるからです。

 一年間の一人ひとりのノートが300頁余の冊子にまとめられ、振り返ることができます。自分の成長ぶりが手にとるようにわかります。その方法が総合学習に取り入れられています。これまで15年間の回数105回(11月まで)、そして調査地点は437地点に及びます。それだけの調査地点の記録が参加者によってなされたことになります。同時に、特に参加した小学生達の成長ぶりを楽しみながら見守っています。地域博物館の役割の一つでもあります。

 地域との関わりで「字誌」があります。19の字のうち11カ所が発刊されています。今月『渡喜仁誌』が発刊されます。字誌には歴史文化センターが大きく関わっています。というのは、字の調査をしていく過程で字の方々は資料の提供者です。歴史文化センターの調査はその方々と密接に関ってきました。地域からいただいのは地域に還すという方針は、字誌の発刊への協力へとつながっています。

 歴史文化センターでまとめたものは、字誌発刊にあたって最大限に利用されます。はそれをもとにさらに調査を深めて字誌に入れていくことになります。編集作業については、全面的に協力しいます。それも地域博物館の果たす役割のひとつだと業務に位置付けています。もちろん、膨大なエネルギーを要します。

 学校の総合学習と関わっています。自分達のテーマを持ってやってきます。そのテーマを発表できるところまで関わります。

 歴史文化センターでは「ムラ・シマ講座」を軸とした学習を行っています。例えば、古宇利島の事例を紹介します。「古宇利島とわたし」として大きなテーマを掲げました。古宇利島を描くのに数多くのキーワードを投げかけます。ムラの成立ち・島の歴史・地名・植物・墓・島の地形・神行事・ウタキ・水・イリガー・アガリガー・建物・学校・人物・公民館(ムラヤー)・豊年祭・言葉・人の一生・港・漁業・海の生物・農業・伝説・海・屋号・戦争・ポットホール・原石・遠見台・小字など。これらのキーワードを島の人達と関わる形でまとめていきます。「まとめ」として教室全体が上にあげたキーワードで組み込んでいきます。語り手は島に住む人達です。生徒一人ひとりは、いずれかのキーワードを持分として聞いてきたことを文章や写真や現物なのでまとめます。みな同じことをやるのではなく、自分のテーマを他の仲間達にも報告して共有化していく方式です。一人ひとりが調べたり聞いたりしたキーワードで古宇利島を皆で描いていきます。自分一人のものではなく、クラス全部で古宇利島を描く。ここはぼくが分担、そこは君だ。という風にみんなで古宇利島全体を描く作業となります
               ▲古宇利島の移り変わり       

                      ▲島の宝もの
 

3.調査・研究の成果は「すくみち」「なきじん研究」、そしてHPへ

 調査は歴史文化センターの日常的な業務となっています。というのは、「地域から得たものは、地域に還す」という方針をとっています。それは現在も変わることはありません。すべてについて説明できませんが、以下の『なきじん研究』の「目次」を書き出しておきましたが、それは村の方々との関わりで調査をし、まとめたのがほとんどです。当初は「すくみち」という機関誌でやっていましたが、その役目も終わり、調査・研究の成果は『なきじん研究』に移行しました。

 平成14年からさらに次へと展開しました。情報提供のできる便利な機器が登場しました。お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、「今帰仁村歴史文化センターの動き」がそれです。歴史文化センターの業務日誌の役目と調査したものは、即還していく、その方針をHPが担っています。生きた情報を提供している面もあります。

 HPの開設は、そのころから入館者のいりが低迷するようになった時期に立ち上げました。「博物館(歴史文化センター)は入館者で測るような施設ではありません」と言い続けてきました。以下に掲げてある「学芸業務を中心とした施設です」と逃れてきました。歴史文化センターのHPの立ち上げは、そのような言い逃れを避けるため、その何割かは来館者に組み入れることも考えていました。そうしなくてもいい時期がやってきました。HPというのは、調査記録や得たものは地域にすぐ還していくという入館者の数ではなく、本来の役目を十分担ってくれています。

 ・『なきじん研究』 1「今帰仁のムラ・シマ」19の字(ムラ・シマ)研究の基本情報を提供しています。
・『なきじん研究』 2 (すくみち):小字(原)域の変遷/今泊のハサギ/津口(つぐち)/古宇
   利のアサギ/今帰仁の領域の変遷/崎山のハサギ/勢理客のヌンドゥルチ/運天のハ
   ーリー/玉城のアサギ/村内の学校の移り変わり/天底のサーザーウェー(共)/謝名の
   アサギ/今帰仁(北山)と沖永良部島/古宇利の海神祭(共)/湧川のアサギ/今帰仁の
   ムラ・シマ/山原における今帰仁の藍と芭蕉/今帰仁のムラと寄留人/天底の神アサギ/
   明治時代の辞令書の紹介/ウツリタマヒの墓跡を確認/謝名の小字の概況/諸志の神ハ
   サギ/平敷村の明治の字図面から/渡喜仁の小字の概況/今帰仁のムラや集落の移動
   /資料紹介「神職並信仰行事記録帳」/仲尾次の神アサギ/村内の主な墓の分布と概況
   /資料紹介:「ノロクモイ御解御願並に立願/古宇利の海神祭/上運天のサーザーウェー
   (共)/今帰仁の歴史と文化/資料紹介:鎌倉芳太郎氏ノートなど。

 ・『なきじん研究』 3 今帰仁グスクを中心とした歴史/運天(港)の歴史/ムラ・シマの歴史など。
 ・『なきじん研究』 4 主なタイトル:諸志の宮城家(ヌンドゥルチ)の墓/資料紹介:『神の島、古
    宇利』/今帰仁間切役人の役職と屋号/北山監守(今帰仁按司)と今帰仁の歴史/山北王
    の時代(13世紀末〜15世紀初頭/古宇利のサーザーウェー/今帰仁の自然―山・川・そし
    て海/謝名の歴史/仲尾次の歴史/平敷の嶽のウガン(共)/今帰仁の稲作(全282頁)

 ・『なきじん研究』 5(歴史文化センター展示図録)(全81頁)
 ・『なきじん研究』 6 今泊の歴史/歴史資料館づくりから/古宇利の海神祭(ウンジャミ)(共)
    /平敷のワラビミチ(共)/資料紹介:今帰仁城跡今帰仁跡付近の拝所・遺跡/古琉球の
    山原(228頁)

 ・『なきじん研究』 7 今帰仁の地名―字名と小字(全225頁)
 ・『なきじん研究』 8 湧川の歴史/古宇利の御願の調査報告(共)/諸志の歴史/資料紹介:
    戦後、復興期の議事録@/古宇利の歴史/資料紹介「祭祀の研究ノート」/復興期の議
    事録A(全252頁)

 ・『なきじん研究』 9 山原の港(全212頁)
 ・なきじん研究』 10 新城徳祐資料―調査記録ノート(全297頁)
 ・『なきじん研究』 11写真に見る今帰仁―歴史散歩―(全246頁)
 ・『なきじん研究』 12 歴史文化センターの動き―調査記録ノート(全186頁)
 ・『なきじん研究』 13 山原の歴史と文化―調査記録―(全292頁)
 ・『なきじん研究』 14 山原の津(港)と山原船(全93頁)
 ・『なきじん研究』 15国頭方の間切番所と同(主)村/中頭方の間切番所と同(主)村/島尻方の
    間切番所と同(主)村/首里城(首里王府)/山原の御嶽(ウタキ)と集落/金武間切域の村
    /今帰仁・本部域の神アサギ/今帰仁間切平敷村略図に見る原域(全284頁)


※(平成24年現在 18号まで発刊)

 現在はHPで公にしてきた「歴史文化センターの動き」から、テーマを絞って『なきじん研究』へ集約する形をとっています。その方法でしばらく続けていきます。

   
           ▲「なきじん研究」や他の刊行物 

4.調査・研究の成果は企画展でも

 平成元年から資料館(後の歴史文化センター)の建設に向け、館(建物)が建設されるまでの6年間は今帰仁村全域が博物館であるとの認識で業務がスタートします。地域調査と研究が先行し、地域から得たものは地域に還す。それが調査・研究したものは『なきじん研究』(紀要)で公にしています。その成果が研究業績につながっている。そして調査・研究、及び収集した資料は公開していく、それが企画展である。地域博物館が果たす役割の一つに調査した成果を企画展で公にしています。それは、地域への教育普及活動でもあります。これまでどのような企画展と特別展を開催してきたか、そのタイトルを掲げ、二、三紹介したいと思います。

 企画展は歴史文化センターの職員や村民が調査研究をしてきたものを地域に還すと同時に研究の成果を公にする場にもなっています。また、中間報告の部分もあります。それに対して特別展は村内で絵画や書道、あるいは焼き物やワラビ細工や木工など、創作活動をしている方々の作品発表の場となっています。単なる会場の貸しをやっているわけではありません。展示をするまでに創作者と歴史文化センターの職員との間で目的やねらいなど、つめた話し合いを持ちます。特別展は創作する方々の作品を求めたり、鑑賞したりする人との出合いの場であり、さらに展示力が試される場でもあります。作者と作品を通して直に関われる機会でもあります。

 【企画展】
 1.今帰仁のムラ・シマ(平成元年12月)        2.今帰仁の歴史と文化(平成3年1月)
 3.今帰仁の自然(平成4年1月)              4.今帰仁の生活道具(平成5年1月)
 5.今帰仁の戦前・戦後資料展(平成7年9月)   6.写真にみる今帰仁(平成7年11月)
 7.今帰仁の地名(平成8年5月)                 8.古宇利島―神人・人々の祈り(平成8年9月)
 9.ムラ・シマを描く(平成9年2月)              10.運天港―歴史を語る(平成9年6月)
 11.シマンチュの装い(平成9年9月)            12.山原のグスク(平成9年11月)
 13.山原のグスク(平成10年1月)                14.おとば学園の仲間たち(平成10年5月)
 15.山原の神アサギ(平成10年9月)             16.新城徳祐氏寄贈資料展(平成10年11月)
 17.今帰仁のムラ・シマ―諸志(平成11年7月)  18.今帰仁村の墓―後生の世―(平成14年9月)
 19.今帰仁グスクが抱えた村(平成15年10月)  20.古宇利島―島に橋が架かる(平成16年10月)
 21.山原の港(津)と山原船(平成17年10月)    22.今帰仁の戦後60年の軌跡(平成18年10月)


  ▲企画展後60年の軌跡」        ▲企画展「今帰仁の墓―後世の世―」 

【特別展】
 @ホアキンの世界―ホセ・ホアキンの作陶展―(平成7年度)
 Aワラビ細工―魅せられる作品・色・人―(平成8年度)
 B嶋原徳七作陶展―土を焼く・アハンナ焼き―(平成9年度)
 Cかな文字の世界―かな・画・墨の重なり―(平成10年度)
 D絵と木工の三人展―酒井亜人・鋭二・玻名城政隆作品展―(平成11年度)
 E不遇の画家―酒井亜人の作品展―(平成年度)
 F山城政子絵画展―時・こくの世界―(平成12年度)
 G今帰仁のワラビ細工―伝統つくる―(平成12年度)
 H彩墨画の世界(平成15年11月)
 I4人展R(アール)(平成17年1月)
 J沖縄の海―原画展―(平成17年10月)

 平成7年に開館後の平成8年から大学からの学芸員実習生を受け入れ、調査したものを展示する過程を実習期間で実践させています。企画展は学芸員実習の成果の一部でもあります。それと来館者へのレファレンスも大事な業務であることは言うまでもありません。

5.地域資料の収集と保存

 歴史文化センターには今帰仁グスクから発掘されて遺物をはじめ、図(地図)や古文書、あるいは戦後資料、写真資料が収集されています。常設で展示されている資料もありますが、その多くは企画展で公開しています。資料の収集は、地域を描くのに必要とするものとの方針をとっています。戦後資料を中心とした企画展を開催しました。ある個人から寄贈された10箱ばかりの資料を開封しました。10年収蔵庫に寝ていたものです。開封して展示していく過程で衝撃を受けました。資料の収集の分類が、教育・政治・農業(サトウキビ・煙草・スイカ・野菜など)・業務報告(年度別)・選挙・文化・地域・国・県など広範囲威に及んでいます。それを見せつけられた時、その多くの分野の資料を見逃しているのでした。つまり、担当者の関心や分野ではなく、さまざま分野の研究に資するような資料の収集ということになります。

 そのこともあって、戦後資料は公にできない内容も含まれています。目録作成にいそしんでいますが、中身についての公開は30年、50年後にやってください。つまり、将来使えるような幅広い分野での資料の収集が必要です。それらの資料は幅広い分野なので活用されるであろうし、生資料なので利用は次の世代にまかせることになります。戦後資料の収集と保存は次の時代への贈り物としての視点で収集をしています。地域博物館の果たすべき役割のひとつに資料の収集も重要だと考えています。現在の調査記録や資料の収集は、次の世代が使えるような資料の収集に努める必要があります。

     
    ▲収集された資料(辞令書など)           ▲収集された図(地図)など

6.その他の活動

 以上挙げた企画展、特別展とは趣きの異なる企画を行って来ました。
 ・沖縄・今帰仁―外人宣教師が見た沖縄(1950年代)(平成12年度)
 ・今帰仁ミャークニー大会(十数年ぶりに復活)(平成13年度)
 ・神人―今帰仁村今泊―(26年前の映画の上映)(平成13年度)

 多くの方々を一堂に集めての40年前のカラーのスライド映写会であったり、20数年前の映画であったりします。1950〜60年代のスライドは歴史文化センターが所蔵しているものを中心にした映写会です。戦後経験してきた生活の場面(稲作・建物・道路・服装・水・明かりなど)を記憶から蘇らせて、さらに語りついでもらいたいと考えています。また「神人」の映画は1975年に撮影され、20数年後の現在どう変貌(衰退)しているのかを動く画像で見ていただいたものです。

 今帰仁ミャークニー大会は十数年前まで開催していたのを復活させたものです。今帰仁ミャークニーの形式はあるが、個々の唄い手の個性がウタの個性をも形作り、聞き手を魅了する。歌い手、聞き手が一体となり琴線が弾かれたように拍手や口笛や感動の熱い思いが会場に伝わる。そのことが、再度聴きたいとの余韻を導き、再度やろうとする力となっています。さらに伝統芸能を根付かせる原動力になっていくだろうと思います。

おわりに

 他の博物館の活動まで把握して報告すべきですが、今帰仁村歴史文化センターの活動や動きを中心に報告しました。最初の方で掲げた博物館活動をしている機関も、今帰仁村歴史文化センターが行っている博物館活動をやっています。他の施設もそれぞれの地域で地域にあった活動をやっています。たまたま、ここで報告する機会に恵まれました。マスコミに取り上げられた施設や活動だけで評価されている面がありはしないだろうか。

 今帰仁村歴史文化センターの事例のみで報告致しましたが、地域博物館も活発に活動を行っていますが、あまり表にでてきません。それらの活動や展示会などを集約し、それを多くの方々に積極的に知らしめる機関が必要だと痛感しています。

 先日、今帰仁村で行われた沖縄県博物協会の研修会で久米島自然文化センターとうるま市立海の文化館の報告がありました。地域博物館として活発な活動がなされている報告でした。報告のあった二館だけでなく他の機関も広く知られていないが、展示会や活動をしています。マスコミを通してだけでなく、加盟機関の企画展や学芸業務や調査研究などの情報を集約し、それらの情報が発信されれば入館者数で測られない博物館となるのではないか。今帰仁村歴史文化センターの活動や展示会など、これまでやってきたことを通して、地域の博物館が果たしている役割、そして果たすべき役割の一端が紹介できたのであれば幸いです。